【障壁画】円山応挙2011年1月29日(土)
@金毘羅宮 表書院ひとまずパンフレットタイプのみ。
感想は後日。
表書院表書院は、入母屋造、桧皮葺で、萬治年間(1658-1660)の建築と伝えられる。
ここはかつて、金比羅大権現に奉仕する別当金光院が、
諸儀式や参拝に訪れた人々との応接の場として用いた客殿であった。
建物は、内部の五間に描かれた円山応挙による障壁画とともに、
重要文化財に指定されている。
また、明治の歴史画家 邨田丹陵(むらたたんりょう)も二間の障壁画を描いている。
表書院の西側には、江戸時代の作庭といわれる池泉鑑賞式庭園、林泉がある。
象頭山十二勝の一であり、「前池躍魚」と称されて、
よく文人墨客の詩歌にも詠まれた。
また、前庭には、式木と呼ばれる松・桜・柳・楓が植えられた
鞠懸(まりかがり)が設けられている。
当宮における蹴鞠は一時廃絶するも、昭和七年には蹴鞠会を作って再興した。
後世に伝えるべき芸能として、県の無形文化財の指定を受けている。
○面白いなと思ったのは、式木と呼ばれる木が植えられていること。
狭い空間の中に必ず四季を楽しむ日本人の心が残っているところに、日本人の優雅さを感じた。
この庭を越えても林泉がおかれる庭に出る。先ほどの広い庭と違い、ゆったりとした時間を室から外にかけて楽しめるのが良いと思う。
こういった家屋ではたいていのもので言えると思うが、どの室から見ても外、襖絵、欄間などどれを見ても楽しめるというのが、豪華であると思う。
円山応挙 障壁画表書院には、五間に及ぶ円山応挙による障壁画があり、
いずれも重要文化財の指定を受けている。
すべて、応挙晩年にあたる店名から寛政年間にかけての秀作であり、
三井家から資金援助を得て京都で制作したという。
円山応挙(1733〜95)は、はじめ狩野派を学び、
のち中国の古画や明清画の写実技法を研究した。
写生を重視しながらも、
そこに伝統的な装飾性を融合させた様式を展開したことで知られる。
円山派の祖であり、門下に長沢葦雪や呉春がいる。
鶴の間 遊鶴図 天明7年(1787)55歳作 紙本墨画
東側の床の間には、羽に頭をうずめるようにして身を寄せ合う二羽の真鶴が描かれている。
続く北側の襖には、
稚松の生える土坡上に立つ一羽の真鶴と二羽の丹頂鶴がおり、
あたりには様子を窺うかのようにそれぞれ違う方向を見やる。
そして西側の襖には、空から飛来する丹頂鶴や、風に靡く葦のほとりを歩む丹頂鶴がいるなど、
様々な姿態の鶴が描かれている。
玄関を入ってすぐ左に位置するこの室は、諸家から来た支社の控えの場であった。
虎之間 遊鶴図 天明7年(1787)55歳作 紙本墨画
崖下に横たわる虎、横を向く虎、正面からこちらを窺う虎、そして白虎、
なかには、眠る豹もみられるが、まさに虎尽くしと言うべき室内の中でも、
特に「水呑みの虎」は名高く、表書院の代名詞ともなっている。
瀧から落ちる清流を、向かい合って仲良く飲む親子の姿は、見る者を和ませる。
本来、獰猛であるはずの虎たちであるが、ここでは皆、とても穏やかで愛らしい。
この室は、引見の人や役人等の座席であった。
七賢之間 竹林七賢図 寛政6年(1794)62歳作 紙本墨画
金砂子の霞に煙る竹やぶの中に、ひっそりと隠棲する七賢と三人の童子の姿がうかびあがる。
七賢とは、中国の魏晋時代に、俗塵を避けて竹林に会した
阮籍・嵆康・山濤・王戒・向秀・阮かん・劉怜を指す。
清談をして世事を忘れたといわれる自由人たちであるが、
ここでは童子が事や巻物、絵絹らしきものを持っていることから、
事や書画に遊ぶさまを描いたものと思われる。
この室は、儀式の際に金光院別当職が座る席であった
(天明7年制作という説もある。)山水之間 山水図 寛政6年(1794)62歳作 紙本墨画
上段之間 瀑布図 寛政6年(1794)62歳作 紙本墨画
表書院の障壁画のうち最高の傑作とされ、
また応挙の画業を代表する山水図として知られているのが、
上段の床の間に描かれた瀑布図である。
右辺の瀧から勢いよく垂下し、
中央の渓からの細流とともに激しく波打ちながら左へと流れ込む河川を描く。
そして、上段之間の東側には楼閣が建ち、
そこから臨む水辺の景が下段の間に広がる。
続いて、南側の襖の渓谷には点在する人家がみえる。
あたりには金砂子の霞が漂い、深山幽谷の幻想的な世界を醸しだしている。
この室は、諸大名が来訪した際の座席であった。
檜樹鷲図 森寛斎
玄関から正面を見上げると、力強く立上る檜の巨木から、
右へと伸びる枝に止まる鷲の姿が眼に飛びこむ。
羽を広げて威嚇するかのように家宝を睨むその鷲は、
今にも飛びかからんと迫り来る。
落款には「明治十六年癸未晩夏写平安寛斎森公粛」とある。
幕末から明治期の画家で、維新後は京都画壇において円山派の重鎮として活躍した
森寛斎(1814〜94)の作であることが知られている。
富士一之間
富士二之間 邨田丹陵
一之間の床の間には、雪を頂く富士の雄大な姿が、
淡墨で瀟洒(しょうしゃ)に描かれている。
南側襖まで引かれる富士の稜線の先には、
濃墨・淡墨であらわされた樹木が低く林立し、
室内を取り囲むかのように東側襖へ続く。
富士の裾野は、鎌倉武士たちによる巻狩が行われた場所として知られているが、
一之間に続く二之間には、
源頼朝の一行が鹿を追う様子が描かれている。
室中にひろがる裾野を駆け巡る武士たちは、
鮮やかな著色によって描かれ、力強く躍動感にあふれている。
この二室は、邨田丹陵(1872〜1940)が伊藤紅雲、吉沼晩汀、佐藤千浦とともに
明治35年(1902)に来訪した折に描いたものである。
丹陵は、東京生まれで、はじめ吉沢素山に学び、のち川辺御楯のもとで土佐派を学んだ歴史画家として知られている。
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